私がその人に注いでいるのは愛情です 当たり前ではない

虐待やネグレクトを自身の子供に行う親は論外。
そうでない親でも実は我が子に注いでいるのは愛情ではないことがある。

愛情が注がれて育てられた人は温かい心の持ち主となって社会に益をもたらす。
愛情ではないものが注がれて育てられた人はモンスターと化して社会に害を及ぼす。

まさかうちの子がモンスターになってしまうなんて、ということは多々あるのである。


自身が注いでいるのは愛情かどうかを見極める方法がある。


自身が接している人に自身が嫌われてでもその人の幸せを願って接することができる。
この想いはその人に対する愛情である。

自身が接している人に自身が嫌われたくないから ( その人の幸せを真剣に考えないで、自身の幸せを願って ) 厳しく躾けることなく甘やかして接している。
この思惑は残念ながらその人に対する愛情ではない。

人は弱いものである。
人は生まれてから『 弱さ稚拙さ視野の狭さ 』を『 強さ賢さ視野の広さ 』に変化させて成長していくものである。
その過程で弱さ稚拙さ視野の狭さを強さ賢さ視野の広さに充分に変化させられなかったときはその人はモンスターと化してしまうのである。

人は弱いものである。
人は我慢や反省や後悔というものを日常的に感じそれらから学びながら生きていくものである。
人は我慢や反省や後悔というものを感じるときに目の前にいる人に不満や怒りをぶつけるものである。

自身の子供から嫌われないように接することは、これらの大切な要素に目を向けることなくポイ捨てしながら無責任にヘラヘラ笑って見たい方向だけを向いて周りを無視して進んでいるようなものである。

自身の子供の幸せを願い接すれば必ず一度は嫌われなければならない
しかし、更に自身の子供の幸せを願って接し続ければおのずと嫌悪感は感謝へ変化していくのである。

愛情のある親は、避けては通れない嫌悪感を受け入れつつ最終的には感謝へ変えて周囲も巻き込んで幸福感を増大させる。
愛情のない親は、嫌悪感を受けることを避けて脆弱な精神と思考のまま放置して周囲も巻き込んで不幸を蔓延させる。

自身が接している人に自身が嫌われてでもその人の幸せを願って接することができる。
この想いはその人に対する愛情である。


私がその人に注いでいるのは愛情ですは当たり前ではない。

参考:子供に死んでほしいと願う親たち
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※他、愛情ではないものが注がれて育てられた人がモンスターと化して社会に害を及ぼすことは続々と発生している。   

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